昨日、「東ティモールのラモス・ホルタ大統領が石破首相と会談」というニュースが流れました。ホルタ氏と旧知の仲である私は、非常に感慨深く、その映像を見ていました。写真は、1997年の1月10日、ホルタ氏が来日した際、衆院議員会館内で会食する私たちを撮った写真です。その1カ月前にノーベル平和賞を授与されたばかりのホルタ氏ですが、与党・自民党の議員が全く相手にしないどころか、外務省も完全に無視、といった状態でした。

なぜなのか。それは、当時の国際社会が、東ティモールを国家として認めていなかったからです。特に我が国の場合は、米国にならい、ホルタ氏が代表を務める民族抵抗評議会をインドネシア内の反体制組織のように位置づけていたところがあります。
東ティモールというのは、400年以上にわたるポルトガルの植民地支配、第二次世界大戦中の日本軍による占領、そして1975年、ポルトガルから独立宣言したものの、直後に隣国インドネシアに武力併合される、というように、度重なる苦難を強いられてきました。とりわけ、インドネシア軍の侵略以降は、抵抗する住民への弾圧が容赦なく繰り返され、軍事行動や拷問等により、全人口の3分の1の人たちが命を落としています。民族自決権を無視した許しがたいジェノサイドです。
1980年代の半ばでした。その事実を知った私は、「東京東ティモール協会」という市民運動グループを立ち上げ、以来、事務局長として、東ティモールの民族自決運動を支援する活動に携わってきました。毎年、東ティモールから独立運動家を招いて、全国各地でシンポジウムを開催。凄惨な虐殺の模様を生々しく語る彼らの声に接し、年を追って、支援の輪は全国に拡がっていきました。
しかし、日本政府は、この国際的な人権問題に目を瞑り、一貫してインドネシア寄りの姿勢を取り続けていたのです。まさに米国追随。日米両国にとって、インドネシアという国は、武器や自動車、電化製品等、自国製品を売り捌くうえでの重要な商品市場でした。結局、そんな損得勘定が優先し、東ティモールの問題から目を逸らしていたのです。私は、東ティモールの独立を訴えつつも、こうした国際情勢からして、内心、独立の日は永遠に訪れないのではないかとも考えていました。
ところが、事態は急転します。ラモス・ホルタ氏がノーベル平和賞を受賞し、それが国際世論を喚起したのです。結果的に、インドネシア政府の対東ティモール政策も軟化。国連での合意に基づいて、1999年8月30日に、東ティモールの独立の是非を問う住民投票が実施されることになりました。
死者もでるような騒乱状態のなかで行なわれた住民投票。私も、国連の投票監視団の一員として参加しましたが、その顛末については、3日後の8月30日(投票から26年の記念日)に、写真も掲載してポストさせていただきます。