投票できる喜び、投票で変わる未来――東ティモール独立記念日に寄せて

今から26年前の1999年8月30日、東ティモールにおいて、独立の是非を問う住民投票が行われました。私も、国連の投票監視団の一員として参加(その経緯については、8月27日のポストで述べさせてもらっています)。投票日前後は、インドネシア軍に後押しされた独立反対派民兵が暴動を起こし、東ティモール全土が大変な騒乱状態にありました。1,000人以上の犠牲者が出たといいます。

そんななかでも、東ティモールの人達は、一人ひとりが一票の力を行使できる喜びを満面に表しながら、死の危険も恐れず、次々と投票所に詰めかけてきたのです。

投票率は、98.6%。そして、78.5%の人々が独立賛成票を投じ、東ティモールの「国家として独立」が決まりました。

その後、独立までのプロセスのなかで、2000年3月から2001年5月までの間、国連暫定行政機構の上級民政官として、東ティモール・コバリマ県の県知事となったのが伊勢崎賢治参院議員です。

↑投票日の前日、街じゅうに緊迫した空気が漂っている。
↑投票日当日、夜明け直後の投票所。投票開始まで2時間以上もあるのに、どこの投票所も暗いうちから長蛇の列ができていた。
↑各地の投票所を巡回する武装警官
↑「投票に行ったら殺す」との独立反対派民兵の脅しがあったにもかかわらず、老若男女が投票に参加。皆の顔に笑顔が溢れている。

東ティモールに滞在中、私が宿泊していたホテルとその部屋。元々教会だった建物の内部を、ベニヤ板で仕切っただけの簡易な宿でした。独立反対派民兵が火を放つとの噂もあり、しっかりとした睡眠をとれなかったと記憶しています。私自身、のちに、日本の刑務所の独房に入れられた時、「あの時の東ティモールの部屋と比べたら、まだこちらのほうがいい」とさえ思えるような宿でした。

でも、それも仕方がないこと。日本を含めた先進国のほとんどが、インドネシア側につき続けてきた結果、東ティモールは、全土が貧困状態にあったのです。

服役中の私は、たびたび東ティモールの人達が語ってくれたことを思い出していました。それは、彼ら彼女らが受けてきたインドネシア軍による蛮行の数々です。東ティモールの住民は、「自由」や「独立」を口にした途端、かたっぱしから牢獄に入れられ、残虐極まりない拷問を強いられる――。彼ら彼女らが語る獄中体験は、そのどれもが耳を塞ぎたくなるような内容でした。本人に対する拷問にとどまらず、目の前で、肉親が強姦されたり、なぶり殺しにされたりと、東ティモールの監獄内では、日常的に人権を蹂躙する行為が繰り返されていたようです。

そのことを考えると、服役中の自分が置かれている環境など、生ぬるいものだと思っていました。ましてや私は、罪を犯した身……。

2002年の5月20日、晴れて東ティモールは、独立の日を迎えたのでした。

21世紀最初の独立国として「東ティモール民主共和国」が誕生。2002年5月20日の正午過ぎ、そのNHKニュースを見て、私の気持ちは湧き立ちました。テレビの画面には、独立式典に臨む初代大統領のシャナナ・グスマン氏や初代外相ラモス・ホルタ氏など、見慣れた顔が映っています。式典会場を埋め尽くす人々。そして、彼ら彼女らの会心の笑みも映し出されました。

そんな映像を目にし、目頭を熱くした私ですが、そのニュースを見ていたのは、刑務所の中。昼食時に、刑務作業場の食堂で、認知症受刑者の食事介助をしていた時でした。

「あれっ、山本さん、なんで泣いてるの?」

知的障害のある受刑者にそう尋ねられ、そこではじめて、自分の目から涙がこぼれているのに気づきました。とにかく、万感胸に迫るものがあったのです。

あれから23年、大統領となったラモス・ホルタ氏が、つい先日、来日しました。実は、石破首相との会談を終えたあと、ホルタ大統領側から、れいわ新選組の党本部に対して、私(山本ジョージ)の連絡先を知りたいとの問い合わせがあったのです。大統領を出迎えた日本人関係者に、ホルタ氏は開口一番、私の名前を出してくれたといいます。

私は、ホルタ大統領に、8月27日にポストしたあの会食時の写真をお送りしました。間に入ってくれた方によると、本当に懐かしそうに写真をご覧になっていたそうです。

連絡先を交換させてもらったので、今後は直接、ラモス・ホルタ大統領と連絡を取らせていただこうと思います。

下の映像は、時事通信が3年前に配信した「独立20年記念式典」の様子です。